神々が宿る特別な地、長浜。
長浜は、湖北と呼ばれる滋賀県北部に立地し、眼前には「母なる琵琶湖」、背中にあたる東には「父なる伊吹山」を従える、風光明媚な景観を有する地です。伊吹山は、日本百名山の1つに数えられる霊峰で、古事記や日本書記によれば、伊吹山と神との戦いに敗れたヤマトタケルは、その後病に伏し能褒野(亀山市)で亡くなったと記されています。また琵琶湖に浮かぶ竹生島は、伊吹山の神が自山よりも高さに優った浅井岳(現:金糞岳)の神の首を切り落としたことで生まれたと伝えられています。神々のご加護に預かる、霊験あらたかなパワースポットに位置することが、私どもワボウ電子の活力の源になっていると言ってもあながち間違いではありません。
浅井長政、お市、そして茶々。
2018年5月に竣工した国内の量産拠点、浅井工場は、本社から北に車で走ること約20分、姉川の合戦場跡を越えた先にあります。この地は、その名の通り、戦国時代の武将、浅井長政が治めた場所で、長政が本拠とした小谷城(現在は城趾)は浅井工場からさらに北に10分ほどの距離にあります。小谷城は、長政と信長の妹で戦国一の美女と言われたお市の方との悲劇の舞台となった城ですが、その間に生まれた三女のうちの長女、茶々はのちに秀吉の側室となり、淀殿として波乱の人生を生き抜きました。近隣にはお市の方が湯治したとされる須賀谷温泉、小谷城の北には、関ヶ原で敗れた石田三成が捕縛された『大蛇の岩窟』があります。浅井工場に就職されたら、ある日突然戦国時代にタイムスリップする、そんな不思議な体験に遭遇するかもしれません。
長浜城と楽市楽座。
長浜は語り尽くせぬ歴史の宝庫ですが、その中でも外せないのが秀吉の存在です。秀吉は藤吉郎時代に浅井攻めで戦功を上げ、その後、交通要衝であった今浜(現在の長浜)に長浜城を築城します。琵琶湖は古来より水運が発達し、北陸敦賀湾の海産物を京都や大坂に運ぶ、あるいは逆に上方の着物・反物や調味料を若狭側に運ぶという交易が盛んに行われていました。秀吉は既得権益や独占販売権を持つ市座(問屋)を廃し、課税を免除するなどの商業政策を進めたため、長浜は商業都市として一層繁栄していきました。商売が栄えれば、生活が潤い、人々や地域が生き生きとする。そういう思想は、今も長浜の地で企業する経営者にしっかりと根付いています。
企業の枠組みを超えて、
人々が集まる場所に。
長浜駅を、琵琶湖と反対側にあたる東口に出て、駅前通りをまっすぐ歩くこと数分、左右に交差する道路が北国街道。越前・加賀に通じる重要な街道で、長浜宿がここに形成されていました。これを北に左折し、まもなく現れるのが長浜商店街メインストリートの『大手門通り』。そしてその中でも、明治、大正時代を彷彿させる洋館、レトロモダンなショップが立ち並ぶ一角が『黒壁スクエア』です。その中心となる『黒壁ガラス館』は、実は当社と少なからず関係があるのです。
黒壁に当社の前身の配送所があった?
黒壁ガラス館は、黒壁スクエアのシンボル的存在ですが、建物の原型は明治33年(1900年)に建てられた百三十銀行に遡ります。その6年後には明治銀行の館となりますが、外壁が黒い漆喰で仕上げられていたため、市民からは『黒壁銀行』として親しまれてきました。同行が1931(昭和6)年に倒産しますが、その後、当社の前身となる日本和紡絹糸製品株式会社が、ここの一部を配送所として利用した経緯があります。
1時間に人が4人に犬1匹?
1970年代、日本全体がクルマ社会へと変貌してく中、長浜にも郊外型の大型流通店が出店してきます。1988年には「西友」が開店し、街の中心部から50店舗もの商店がこのSC業態に移動。街中は空洞化してしまいます。当時黒壁銀行は、長浜カトリック教会が壁を白く塗って使用しておりましたが、街道を行き交う人々が激減したことにより、売却・解体の話が持ち上がります。こうした状況に憂慮した「ながはま21市民会議(長浜青年会議所の卒業生らによる団体)」や「光友クラブ」なる有識者集団らは、第三セクター「株式会社黒壁」を1988年に立ち上げ、すでに不動産の手に渡っていた教会建物、すなわち「黒壁銀行」を買い戻すことに成功します。
現社長 月ケ瀬義雄の活躍
「株式会社黒壁」は、長浜出身の思想家「西田天香」の教えである「無一物無尽蔵」を経営に生かし、事業としてはガラス工芸の小売に挑みました。設立後30年を超えた現在、長浜は滋賀県有数の観光地へと変貌。商店街は活気を取り戻すに至っていますが、その奇跡的な復活劇は、日本でも稀有な成功事例として研究テーマやメディアに取り上げられほどになりました。当社は、その前身が太平洋戦争の最中、ここに配送所を設けていたわけですが、実は現社長もまた、過去において黒壁に深く関わっています。月ケ瀬は「株式会社黒壁」設立に貢献した「ながはま21市民会議」と「光友クラブ」の双方の活動に参加し、1985年には前者の母体である青年会議所の理事長にも就任した経歴を持ちます。特に青年会議所時代から「曳山まつり」の継承に熱心に携わり、組織の枠組みを超えて地域文化と経済の振興に尽力してきました。現在でも「曳山まつり」の運営に深く関与しており、「黒壁」と相まって長浜のプレゼンスを高めることに貢献しています。歴史、文化への敬意が、結果的に人を呼び集め、地域を豊かにし、企業も、そこに働く社員も潤うという好循環は、月ケ瀬の哲学でもあるのです。